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チェーホフの素顔(3) ~家族の証言より~

~少年時代のおわり~
アントン・チェーホフ


■鐘楼の鐘で母親を歓迎した子供たち
楽しかった子供時代も終わりを告げようとしています。
最後に、子供たちが教会の鐘で母親を歓迎したエピソードを、マリヤの本から紹介します。 
  
 cross-2395426_640.jpg 


「私の父は、祭日の教会のお勤めを決して欠かしたことのない人で、これには家族全員が参加することを強要しました。私たち子どもにとってはそれが苦痛の種でした。早起きをしたうえ教会で長時間立ったままでいるのですから。しかしそんな時にも兄弟たちはふざけあいました。たとえばこんなエピソードがあります。

早朝、みんな気持ちよく寝ていて、とても起きる気になれません。母が、朝の礼拝に遅れるとか、父さんに叱られるとか言って、一人一人せかせます。父はみなより一足先に出かけています。やっとみんなの支度ができたのにアントンだけは頭から毛布をかぶって返事をしません。

『アントン、早く起きな。朝の礼拝に遅れるよ。父さんのことだからきっと怒ってるよ』
兄は足をばたつかせて言うことを聞きません。

私たちはアントンを残して教会へ出かけます。ニコライは先に出かけていました。ニコライは鐘楼で鐘を鳴らすのがとても好きで、たくさんの鐘を全部いっせいに鳴らして、独特の響きとハーモニーを出すことができました。」



ロシア 鐘 鐘楼 russia-1097400_640ロシア教会の鐘楼の鐘



「教会へ向かう途中、私たちの前に思いがけなく、アントンの姿を見つけます。はたして、彼は毛布をかぶっていた時にはもう着替えていて、私たちが家を出ると、大急ぎで起きて顔を洗い、近道を抜けて私たちを追い越したのでした。

教会の近くまで来ると、突然…鐘楼の鐘がいっせいに鳴り出しました。その時刻でもないのに盛大な鐘の音にみんなびっくりします。これもニコライが鐘楼から母の姿を見つけて鐘で歓迎の挨拶をやってのけたのです。本当はこの鐘は司祭様が教会に到着するときに鳴らすものなのですが。兄がこの一件で父からお目玉をくらったことは言うまでもありません。
後日、ニコライが鐘楼の鐘で母を歓迎したことは私たち家族の語り草になり、そのたびに心の底から大笑いしたものでした。

やがて、兄たちはそれぞれ男の子らしい興味の対象を持つようになり、私は仲間はずれされました。」



■子ども時代の終わり
 -父親の破産とモスクワへの移住ー


子供たちの楽しいエピソードも、1875年、上の兄二人が勉強のためモスクワに出たことで終わりを迎えます。長兄のアレクサンドルは大学へ、そして次兄のニコライは美術学校へ。
次兄ニコライ(左)と長兄アレクサンドル(右) 次兄ニコライ(左)と長兄アレクサンドル(右)



しかし時を同じくして、父親の商売も傾き始め、あっという間もなく翌1876年4月には決定的に破産。父親は借金地獄から逃げ出すために、モスクワの子どもの所へ転がり込みます。そして、その年の終わりには家が没収されてしまい、一家はモスクワへ移住します。

ただし、アントンだけはタガンローグに残らなければなりませんでした。
人手に渡った家に新しい家主が入ってくるまで管理人として残らなければならなかったことと、学校を卒業しなければいけなかったため(もう一人の弟のイワンも残りましたが、まもなくモスクワへ呼び寄せられます)

ミハイルも、マリヤも、それぞれの回想記の中で「父が商才を発揮したことは一度もなかった」「父は商売には向いてなかった」と語っていますが、父親パーヴェルが破産してしまった大きな原因は、彼が新しく家を新築したことから大きな負債を抱えてしまったことでした。そこに加えて、上の二人の息子をモスクワへ送り出すために無理をしたことが決定的となりました。


以下は、上の息子たちをモスクワへ送り出した後、一家がモスクワへ逃げていく前の家庭の様子が語られています。

ミハイル
「上の息子二人がモスクワに行くにあたっては、父は何とかやりくりをした。しかし、父の事業はこれで完全に破綻した。自分たちの持ち家で暮していたとはいえ、借金に苦しめられ、貧しさゆえ、交際のない閉鎖的な生活が始まった。僕たち少年は、毎日毎日を労働に明け暮れた。夜はアントンが即興的に何かを演じてみんなを楽しませ、母や叔母がいろんな物語を語ってくれた。…」





■タガンローグでのアントンの空白の3年間
学校を卒業するために一人でタガンローグに残ったアントンがどんな時間を過ごしたか、はっきりしたことは分かりません。
かろうじて弟のミハイルが、兄や知人から聞いた当時のエピソードを残してくれています。
(PD) トリム版Mikhail_Chekhov_in_Melikhovo ミハイル


「ぼくが1876年にモスクワへ発ってしまい、アントンとまる3年離ればなれになったこと、この3年がまったくの空白になってしまったことは実に残念だと思う。この3年の間にこそ、彼は大人に成長し、個性を形成し、少年から青年になったのだから。

「ぼくの知る限りでは、7、8年生の頃の彼は、8年生の頃の僕がそうであったように、女子生徒達に言い寄ったりして、ほのぼのしたロマンスがいくつかあったらしい。彼自身から聞いている。大学生になってからのアントンは、偶然すれちがった女の子を見て、まだ中等学校の生徒だったぼくの制服を引っ張って、『ほら、はやくあの子の後を追うんだ! 7年生にとっては掘り出しものだぞ!』などと、よく言ったものだ。

「アントンの死後、スヴォーリン [出版人、ジャーナリスト、アントンの終生の友人] が、アントンから聞いたというエピソードを話してくれたことがある。
 まだ中等学校の生徒だったアントンは、誰かの領地のどこかの広野にぽつんとある井戸のそばで、水に映る自分の姿を見ていた。そこへ、15歳くらいの少女が水汲みにやって来た。アントンがとっさに抱きしめてキスしてしまうほど、女の子はチェーホフを魅了してしまった。ふたりはいつまでも、何も言わず、井戸の水面を見つめていた。彼はその場所を立ち去ることができず、少女は水汲みのことを忘れていた。
 スヴォーリンにこの話をしたのは有名な作家になってからで、エネルギーの平行性と一目ぼれについて話している時だったという。

「タガンローグでの3年間、彼はよく劇場通いをしていた。…読書もたくさんした。…自分でも本格的といえるドラマ『父なし子』や、軽喜劇…を書いた。中等学校の生徒のころから、新聞…の抜き書きを作っていた彼は、モスクワにいる兄弟たちが登場する手書きの風刺マンガ雑誌『吃り』」を自作して、僕たちに送ってくれた。」





1874年撮影 チェーホフ家 大集合‼
 幸せな子供時代の最後を飾った、チェーホフ家の貴重な家族写真です。
※訂正とお詫び
画像の解説部分で、5男ミハイルの年齢が間違っておりました。
訂正と共にお詫び申し上げます。
(訂正前「5歳」 ⇔ 訂正後「9歳」)



40% 解説つき画像⑤ (PD) ファミリー1874年の写真 Chekhov_with_family_02

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チェーホフの素顔(2) ~家族の証言より~

■少年時代のチェーホフ(2)
タガンローグの生家 [ Chekhov_Birthhouse]
タガンローグの生家 By Бобровская Ольга - Own work, CC BY-SA 4.0, https://commons.
wikimedia.org/w/index.php?curid=43376541


 後年、チェーホフは「子どもの頃、自分には少年時代が無かった」と語っています。
 妹のマリヤは「…のちに、もう大人になってから、あの生まれつきデリケートで温和なアントンが、子ども達に対する教育のことで、よく父を非難しました。…」と思い返しています。

(PD) 父パーヴェル(トリム) 316px-Chekhov_PE   父親パーヴェル


しかし一方で、妹マリヤや、末弟ミハイルの回想記を読むと、チェーホフ家の別の面が見えてきます。どんな環境の中でも兄弟たちがいつも一致団結して精一杯生きている姿、また小さい頃の腕白きわまりないアントン少年の姿が伝わってきます。
ミハイルとマリヤ末弟ミハイルと妹マリヤ



ミハイル
「わが家の一日は、労働に始まり労働に終わった。家族全員が早起きだった。少年たちは学校へ行き、帰ると宿題をやって、家の手伝いが全部終わってから自分の好きな事を始めた。

「でも僕たちは、父親の代わりの店番を務めたりしながらも、ちゃんと年頃の男の子らしい楽しみ、都会の少年にとっては夢にも出てこないようなことをしていた……。

「海に行って一日中ハゼを釣ったり、ラプター[ クリケットに似たゲーム ]をして遊んだり、家庭演劇をやったりした。家の生活規則はたいへん厳しかったし、当時ではあたりまえの体罰もあったけど、僕たち男の子は、勉強や家事の手伝いの合間をぬってけっこう自由を満喫していた。

 何よりもよく覚えているのは、誰にも許しを乞わず、勝手に外へ遊びに飛び出していったことだ、大事なのは食事にはちゃんと帰ること、家族の生活のリズムを崩さないことだった。勉強や自分の責任はきちんと果たした。…」

マリヤ
「子どもの私たちは用事もたくさんしなければなりませんでしたが、それでもお互いに仲よく、陽気に暮らしていました。遊んだり、ふざけたり、いたずらしたり、いつも笑い声が家の中に絶えませんでした。

 いたずらっぽい即興芝居や、罪のないふざけっこを思いつくのは、いつもアントンがその中心人物でした。彼が決まって子供仲間の首謀者でした。」



アントンの悪戯の標的となった、兄ニコライの帽子
荷馬車①rustic-2087334_640 

 弟ミハイルは、子どもの頃の家族旅行のエピソードで、アントンの腕白ぶりを紹介しています。

 しかしその腕白ぶりは、年相応の、ごく当たり前な子どもの姿ですが、後年の「静かな文学者」のイメージからは想像もつきません。

 以下のクリニチカ村への家族旅行は、兄ニコライが15歳。アントンは13歳の時のエピソードです。
アントンとニコライ左がアントン、右が兄ニコライ

ミハイル
「…子ども達のために両親が計画した遠出の旅のことを覚えている。タガンローグから70露里(約75キロ弱)離れたクリニチカ村への旅だった。…

「当時15歳だった次兄のニコライはどこからか折り畳み式のシルクハットを見つけて来て、これをかぶって行こうとしていた。これを茶目なアントンが散々物笑いにした。
 
「御者を数に入れないと、総勢7人が荷馬車に乗って出発した。今思うと、7人が乗り込んで70露里を往復するなんてよくできたものだ。想像することすら難しい。」



 ちなみに、この「70露里(約75キロ弱)」というと、日本でいえば、だいたい「新宿~小田原」間くらいでしょうか(正確には80キロを少し超えるようですが)。

 おそらく早朝に家を出て、夕方に着いたようなので、移動に6~7時間ほど、だいたい時速10~13キロでしょう。これってジョギングより少し早いくらいの速度にあたるようです。さすがに荷馬車に乗ったことはないので分かりませんが、確かにこの位の速さなんでしょうね。

ロシア農村 ①(小)russia-91881_1280


「ニコライは道中ずっとシルクハットをかぶっていた。そして片目をすがめてアントンの冗談を聞いていた。彼は幼児の頃からわずかではあるが斜視だった。顔を肩の方にちょっとかしげ、片目を細くして歩く癖があった。兄弟にいたずらを仕掛けたり、あだ名をつけたりするのが好きなアントンは、ニコライを始終からかっていた。

『おい、ガチャ目くん、一服したいな!タバコ持ってるかい?なあ、メッカチくん』
  

「…クリニチカ村へ辿り着いたのは、夕陽が沈み始める頃だった…今まで延々とニコライをからかって落ち着かせなかったアントンは、クリニチカへ着くとついに冗談だけでは我慢しきれなくなって、ニコライの頭からシルクハットを叩き落とした。

 ハットは馬車の車輪の下へ飛んでいき、押し潰されて中からバネが飛び出した。それでも大人しいニコライは、何も言わずに自分の帽子を拾い、横からバネが飛び出ている帽子をかぶりなおして旅を続けた…」



 さて、滞在先の農家に着くと、落ち着く暇もなく、アレクサンドルとアントンは、すぐどこからか小さな引き網を見つけて来て、川へ魚捕りに出かけ、小さなカマス5匹とカニを50匹くらい取って帰って来ます。

 そして一家は、クリニチカ村で丸二日過ごし、その後、少し離れた祖父エゴールの住むクニャジャヤまで足を伸ばします。

小川、田舎(小) water-3341531_640

「…ニコライの帽子は、このクニャジャヤで不幸な最後をとげることになる。彼は水浴びする時も帽子を手放すことができなかった。帽子をかぶった裸のニコライが川の中でもがいていると、アントンが後ろからそっと近づいて行って帽子を叩いた。帽子はニコライの頭から落ちて、みんなが驚いたことに、水を吸い込み沈んでいった……。」


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チェーホフの素顔(1) ~家族の証言より~


■少年時代のチェーホフ(1)
チェーホフについては同時代人の多くの人が、その思い出を語っています。
今月から、チェーホフの家族の言葉を通してチェーホフの素顔を紹介していきたいと思います。
まずは、子供時代のチェーホフについて。

(PD) Melikhovoのチェーホフ [ Chekhovs_in_Melikhovo ]




チェーホフは、名前をアントンといい、1860年1月に黒海の北部アゾフ海に面する港湾都市タガンログで6人兄弟の3番目に生まれました。父は元農奴で、雑貨商をいとなむ商人でした。
(以下、この記事の中では、チェーホフを家族関係の中で話す場合は、“アントン”または“アントン・チェーホフ”の名称で呼びます)
タガンローグの生家 [ Chekhov_Birthhouse]
タガンローグの生家
 By Бобровская Ольга - Own work, CC BY-SA 4.0, https://commons.
wikimedia.org/w/index.php?curid=43376541


「私に子供時代はなかった」

後年、チェーホフが自身の幼少期をふりかえって「私の子供時代に、子供時代はなかった」と述懐しています。チェーホフが幼い頃は、父親という存在は絶対的な権力者であったため、父親からの暴力や体罰は当たり前な時代でした。なのでチェーホフの父親について、一般には「むごい暴君」「反面教師としての父親」のイメージが広まっています。

(PD) 父パーヴェル(トリム) 316px-Chekhov_PE 父親パーヴェル

ただし、チェーホフの妹マリヤは、この父親像についてこんな風に述べています。

「…私たちの過ごした少年時代がどういう時代だったかを忘れてはなりません。祖父エゴールはさる地主の農奴として人生の辛酸を学びました。父もお金を積んで自由の身になるまでの青年時代はやはり農奴だったのです。(註:のちに、ロシアで農奴解放令が出される少し前の時代ですが、祖父エゴールはお金を払って自分の家族を農奴の身分から解放します)

「したがって、厳しく荒っぽい家風は、父が子供のころに過ごした束縛と過酷な生活の名残だったのです。

「だから、父の子供たちに対する態度がただ “むごい暴君” だったと考えるのは間違っています。気難しい人でしたけど、でも非凡な、才能のある人間だったのです。

「父のあの、芸術を愛したり音楽や歌を好んだ性質や、はっきりとした道徳観がいったいどこからきたものなのか、のちになって私は驚きの目を見張ったものでした。彼は自分ではまったく教育を受けたことのない人間でしたが、子供達にはなんとかして中学で勉強させようとしました。子女の教育にはまったく反動的な考え方をしていた当時の商人家庭の仕来たりを思い起こしてみれば、私たちの父が同じ階層の他の人たちよりどれほど進んでいたかが分かります。」
『兄チェーホフ ~遠い過去から~』(マリヤ・チェーホワ著:筑摩書房)より

才能を開花した兄弟たち
チェーホフ家の兄弟は、チェーホフ自身を含め全部で6人いましたが、全員が才能豊かな天分を持っていたようです。アントン以外の子供たちも、作家や画家として活躍したり、あるいは教師となりました。父の代まで農奴であったのに、その子供たちのほとんどがいずれも豊かな才能を発揮したのは驚くべきことです。(のちにアメリカに渡った俳優、演出家のマイケル・チェーホフは、長男アレキサンドルの息子で、アントンの甥にあたります)

(PD) Melikhovoのチェーホフ。左から右へ:Maria、Anton、Ivan、?、Michael [ Chekhovs_in_Melikhovo ]
メリホヴォ時代のチェーホフの兄弟たち (左から右へ:妹マリヤ、アントン・チェーホフ、4男イワン、間の女性は不明、5男ミハイル



■自由の身分を手に入れた、祖父エゴールについて
先に紹介したマリヤの話の中に少し触れられていますが、チェーホフの祖父と父親はかつて農奴でした。

しかし祖父エゴールは、自由を欲する気持ちが非常に強かったため、家族全員分の身代金を払って、自由の身分を手に入れます。それは公的に「農奴解放令」が出る前の出来事でした。農奴制末期の時代とはいえ、こういうことが出来たのは驚きです。


この時、ちょっとしたエピソードがあったことを、弟、ミハイル・チェーホフが紹介しています。


エゴールは、自分の主人であるチェルトコフという地主に家族全員の身代金を払います。ところが、娘一人分だけお金が足りなかったのです!

「…娘、アレクサンドラの身代金が足りなかったので、祖父は金を工面して身受けに来るまで娘をよそに売らないでほしいと頼んで、地主のもとを去ろうとした。しかし、チェルトコフはちょっと考えて、『待て』というふうに手を振った。

『ま、これもありか…。おまけだ、持って行け!』

というわけで、ぼくたちの叔母アレクサンドラも自由の身になったのである。…」
『わが兄チェーホフ』(ミハイル・チェーホフ/東洋書店新社) より

なんだか、映画のワンシーンに出て来そうなエピソードです。

(この記事は、2018/5/8 に修正加筆しました)

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-王女メデイアの故郷を訪ねる-

『メデイア』特集 2

(この記事は、「東京ノーヴイNewsPaper 4月号」掲載の記事をもとに作成しています。)




魔術を駆使する、王女メデイア
エウリピデスの『メデイア』を読むと、メデイアが様々な魔術を駆使することが描かれています(しかもメデイアは、けっこうエグイ魔術を使います)

ところでメデイアって、王女様だったのになぜ魔術も使えるのでしょう? 今回は、そんな疑問に答えるべく、メデイアの故郷を訪ねてみたいと思います。



古代ギリシャ世界におけるコルキス
コルキス王国は、今のグルジア、正確には、黒海に面するグルジア西部にあたります。 


コルキスの地図③

(PD)コルキス(現グルジア)近辺の黒海Sochi_edited
コルキス(現グルジア)近辺の黒海


そうです、
私たちのレパートリー作品である、ブレヒトの『コーカサスの白墨の輪』の舞台ともなった国です。
領主一家(加工)1「コーカサスの白墨の輪」より


神秘と黄金の国、グルジア
グルジアは、先史時代にあっては金属精錬の発祥地のひとつとされています。そして古代ギリシャ文明に先駆けて開花、繁栄しました。



cc-by2 (mischvalente - IMGP1630 Uploaded by geagea)193px-Georgia_(15)
ジョージア国立美術館「黄金のライオン」
By mischvalente - IMGP1630Uploaded by geagea, CC BY 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10056908

cc-by3(315px-Ananauri_Gold_Necklace_02)アナナウリ墳丘墓の黄金ネックレス

By Jonathan Cardy - Own work, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=33767641




またコルキス人の富裕さについては、早くからギリシャ人たちの知るところであり、ギリシャ神話におけるコルキス王女メデイアと「黄金の羊の毛皮」の物語に端的に示されています。

「メデイア」にも出てくる、この「黄金の羊の毛皮(金羊毛)」とは、ギリシア神話に出てくる秘宝のひとつで、翼を持つ金色の羊の毛皮のこと。コルキスの王が所有し、眠らないドラゴンによって守られていたそうです。

つまり、古代ギリシャ人にとって、コルキスは最果ての地であり、豊かさと同時に妖しく、神秘に満ちた国と映ったようです。
もっとも、エウリピデスの作中では、イアソンの口によって「野蛮な国」「未開の国」など、散々な悪口を叩かれますが…。


40% (PD) 金羊毛とイアソン800px-Jason_Pelias_Louvre_K127金羊毛とイアソン




ヘカテ女神に仕える巫女、メデイア

さて、次は、なぜメデイアが魔術を自在に使えたかについて見てみましょう。

実はメデイアは、血筋の上では、太陽神ヘリオスの後裔にあたりました。
そして彼女は、コルキス王国の王女であると同時に、ヘカテ女神に仕える巫女でもありました。



この「ヘカテ女神」とは、いったいどんな神様だったのでしょう?
(PD) ヘカテー(ウィリアム・ブレイク画、1795年)William_Blake_006ヘカテー(ウィリアム・ブレイク画、1795年)


ヘカテ女神は、もともとはアナトリア半島やトラキア地方において信仰されていた女神だったと考えられています。
非常に古い神で、天空、地上、冥界にかかわる神であったようです。やがて、冥界の神としての性格が強くなっていき、そこから、月や魔術をつかさどると考えられていったようです。

こうして、ヘカテ女神は、別名を「死の女神」、「女魔術師の保護者」、「霊の先導者」、「死者達の王女」、「無敵の女王」などと呼ばれていました。

メデイアは、この魔術を司る女神ヘカテに巫女として仕えていただけでなく、のちには自身も神の系図に名をつらねることになります。こうして見てくると、彼女が魔術を使えないわけはありませんね。

ただし、実際に、当時のコルキス国でヘカテ女神が信仰されていたかどうかは分かりません。
どちらかといえば、エウリピデスが、ドラマ性を高めるために設定したお話のように思いますが…。
(どなたか詳しい方がいたら、教えてください)


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『メデイア』を生んだ古代の伝説「アルゴー船の遠征」!

『メデイア』特集1
(この記事は、「東京ノーヴイNewsPaper 4月号」掲載の記事をもとに、改めて編集・作成しています。)
50% (PD) わが子を殺そうとするメディア ②(ウジェーヌ・ドラクロワ画 、1862、リール市立美術館蔵)800px-Eugène_Ferdinand_Victor_Delacroix_031 わが子を殺そうとするメディア (ウジェーヌ・ドラクロワ画 、1862)



エウリピデス『メデイア』の作品背景には、古代ギリシャ世界に広く伝わっていた『アルゴー船の遠征』という物語伝説が存在しています。
この物語なくて、『メデイア』は語れません!

この『アルゴー船の遠征』こそ、後にメデイアの夫となるイアソンが主人公として活躍する冒険の物語であり、二人の出会いを描いた作品なのです。

今回の記事では、この『アルゴー船の遠征』譚について紹介させていただきます。どうぞお楽しみください。



1)物語の発端

イアソンは、もともとはギリシャ東北部テッサリア地方にある国、イオルコスの王子でした。

60% テッサリアの地図②


けれどもイアソンがまだ幼かったとき、王位は、叔父の手によって奪われてしまうのです。

年月が流れ、立派な青年に成長したイアソンは、王位を返すよう叔父に迫ります。

焦った叔父王は、ギリシャから遠く離れた最果ての地、コルキス王国にあるといわれる伝説の「黄金の羊の毛皮」を手に入れて帰ることが出来たなら王位を返そうと約束します。叔父には、それが不可能だという目論見があったのです。

イアソンは女神アテーナーから助言を得て、船大工のアルゴスに50の櫂を持つ巨船を建造させました。そして、イアソンが船員を募るとギリシャ中から50人の勇者が集まり、彼らはともに、このアルゴー船に乗り込んで、最果ての地、コルキス王国に向かいます。


220px-Building_Argo_BM_TerrD603.jpg

アルゴー船建造を手伝うアテーナー。
From wikimedia Commons/ File:Building Argo BM TerrD603.jpg 21 August 2007 (UTC) License=CC BY-SA 2.5



2)豪華キャストの神話
ちなみに、このアルゴー船に乗り込む50人の英雄たちは、そうそうたる顔ぶれです。
豪華キャストというか、まるでギリシャ神話に登場する英雄たちのオールスター戦!

有名どころでは、英雄の代名詞ともいえる怪力ヘラクレスから始まって、クレタ島の迷宮に住む怪物ミノタウルスを倒すテーセウス、死んで双子座になったカストールとポリュデウケース。変わりどころでは竪琴の名手オルペウス(オルフェウス)などがいます。

ただし残念なことに、せっかく揃えたこの豪華メンバーも、全員が活躍の場を与えられる訳ではありませんでした。
英雄の代名詞ヘラクレスに至っては、旅の始まりの方で脱落してしまいます。
(あるトラブルがもとで島に降りている間に、船に置いてきぼりをくらってしまうのです)


40 (PD)ローマ・カピトリーノ美術館にあるヘーラクレースと二匹の蛇の像。800px-Herakles_snake_Musei_Capitolini_MC247 子供時代の英雄ヘラクレス
60%(PD)ミノタウロスと戦うテーセウスMinotaur 怪物ミノタウロスと戦う英雄テーセウス

3)メデイアとの出会い
メデイアは、遠国コルキス国の王女でした。
このコルキス国というのは、古代ギリシャ世界においては、その最果ての国であり、神秘の国でもありました。
コルキス国は、現在の黒海沿岸のグルジアに相当します。

コルキスの地図③



彼女は、コルキス国の宝である「黄金の羊の毛皮」を求めてやってきたイアソンに、一目ぼれをしてしまい、自国を裏切って、イアソンとともに「金羊毛」を奪って逃げ出します(メデイアは実は魔術を使える巫女でもあったため、魔術を使ってイアソンを助けます)

『アルゴー船の遠征』という冒険譚は、この「金羊毛」を手にしたイアソンがイオルコス国に無事に戻るまでを描いています。


40% (PD) 金羊毛とイアソン800px-Jason_Pelias_Louvre_K127  金羊毛を叔父に渡すイアソン


4)イオルコスに戻ってからの遍歴
さて、金羊毛を手に入れ、メデイアとともにイオルコス国に戻ってみるも叔父には王位を返すつもりもないため埒があかず、業を煮やしたメデイアは、魔術と奸計をもって叔父を殺してしまいます。この手口があまりに残酷であったため、人々から怖れられ、イオルコスにもいられなくなり、二人はコリントス王国に逃れてきます。

コリントスは、古代ギリシャ世界では、経済の中心として栄え、アテナイやテーバイ王国の台頭後も、財力でこれらに並んでいました。

〈メデイアたちは、イオルコスを逃れコリントスに渡ります〉
50% コリントスの地図②


北のギリシア本土と、南のペロポネソス半島をつなぐ位置にあり、交通の上でも、また交易面でも、絶好の要衝の地として繁栄した国家でした。

商業経済の栄えた地域ではよく見られるように、迷信よりも合理的な発想が好まれるような、自由な気風の国だったのではないでしょうか。

そしてその意味では、メデイアにとって、自身が施した魔術の結果として逃げ込む場所としては、一番ふさわしい国だったのかもしれません。

こうして、この地でメデイアはイアソンとの間に二人の子供をもうけ、平和に暮らしていました。
けれどもイアソンは、コリントスの王クレオンから自分の娘との縁談を持ちかけられると、
メデイアと自分の子供を捨てて、王の娘との縁談を受けてしまうのです。

エウリピデスの『メデイア』の物語は、ここから始まります。





次回は、王女メデイアの故郷、コルキス国について紹介させていただきます。
どうぞ、お楽しみに!





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私たちは、ロシア功労芸術家のレオニード・アニシモフを芸術監督に迎え、ギリシャ悲劇からチェーホフにいたる、古典作品から厳選したレパートリーを上演しています

平成27年3月27日、東京都より「認定NPO法人」として認定されました。


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