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ヴォ―リャのこと ― 日本で精神科医になったブラジル人 ―

60% 遠坂先生(加工) 2013 キャンプにて 遠坂創三(とおさか そうぞう)先生

 私たちの劇団の芸術監督レオニード・アニシモフ氏の通訳として、また同時に友人として、いつも私たちを助け支えてくださっている遠坂創三(とおさか そうぞう)先生。今回は、遠坂先生の奥様ヴォーリャさんの記事を紹介したいと思います。

 お二人は、1960年代にロシア民族友好大学で共に学びました。そして卒業後、スウェーデンで偶然の再開を果たし結婚。ヴォーリャさんは来日後、日本で精神科医の資格を取得するため猛勉強をし、精神科医となってからは数十年にわたり日本で働き続けた後、2004年に入院先の病院で亡くなられました。

 今回の記事は、2017年3月に発行された『カスチョール 33・34合併号』に掲載されたものから引用しています。『カスチョール』は、ロシア児童文学の翻訳家、そして大阪外国語大学名誉教授である、田中泰子先生が代表をつとめる、京都のロシア児童文化研究グループ「カスチョールの会」の機関誌です。
60 「カスチョール33・34号」表紙


※この雑誌は、「カスチョールの会」のWebShopから購入できます。この号は、定価1,400円です。
 ➡ http://koctep.cart.fc2.com/?ca=all&sort=5
※「カスチョールの会」ホームページ
 ➡ http://koctep.jp/



『ヴォ―リャのこと ―日本で精神科医になったブラジル人― 』
遠坂創三(工学部、3期生)

夏のタイガで生まれたロマンス
 そう、あれはシベリアへ出発する朝のことでした。集合場所の大学中庭でばったり彼女に出会ったのです。そのときに見た彼女の眼。僕は、底知れぬ深さをたたえたその眼に惹きこまれるような感覚にとらわれたのでした。

 当時僕は民族友好大学に来て4年目で、工学部機械工学科の3回生でした。1966年6月末のことです。大学当局は、学生の夏季休暇のために様々なプログラムを用意していて、そのうちの一つがシベリアの鉄道建設に参加するというものでした。僕はシベリアの発展に寄与するというロマンに憧れて応募した口ですが、これがいいバイトにもなりました。2か月分の謝礼900ルーブル(当時のレートで36万円)は奨学金10か月分にもなり、ソ連人学生にとっては奨学金20か月分(ソ連人学生の奨学金は留学生の半額だった)に相当したので、彼らにとっては大切な収入源になっていました。

 さて、わが大学のシベリア鉄道建設隊は総勢120名、その過半数がソ連人学生で、うち女性は10数名。行き先は、巨大水力発電所で有名なブラーツクからさらに奥に入ったジェレズノゴールスク(「鉄山の町」の意)でした。タイガのど真ん中にあるその小さな町が第二シベリア鉄道につながるアバカン=タイシェット鉄道の建設現場になっていたのです。仕事の内容はすでに敷設されている鉄道の電化工事に関するもので、電柱を立てるために深さ約3メートルの穴を掘ったり、変電所の建物を建てたりといったものでした。全て手作業なので、肉体労働に慣れていない外国人学生にとっては大変な重労働でした。一方、ソ連の男子学生には兵役義務[注1]があり、労働経験者も多かったのでそれほど無理な仕事でもなかったようです。町外れの大型テント村が宿舎でしたが、夏とはいえ8月の朝方にはテントの中でも気温が氷点下まで下がります。朝起きると、前日の作業で汗まみれになった作業着がゴワゴワに凍っていて、疲労と寒さでこわばった体でそれを着るのはひと苦労でした。

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注1 ソ連では18歳以上の全ての健康な男子に2~3年の兵役義務があったが、まだ兵役を終えていない学生は、大学の軍事訓練科で銃の訓練などを受けた。女子学生は看護技術を学んだ。
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 面白かったのは男女の分業体制で、女性は炊事係か見張り番と決まっており、男たちが必死の線路作業をしている傍らで女性の見張り役がのんびり日に数本しか通らない列車を待ちながら読書にふけっているという構図がよく見られました。それでも報酬は平等(工事当局とは出来高払いの契約だった)に分割されたので、不満を感じていた男子も多かったでしょう。

 ここで、冒頭に触れた女性の登場です。彼女の名はヴォ―リャ。1945年生まれのブラジル人で医学部の学生です。彼女とは入学して間もない頃にちょっとした縁で知り合いになりましたが、たまたま一緒に建設隊に参加するまでは、特別なことは何もありませんでした。あの朝出逢ったあの眼、そしてシベリアの奥地に一緒に行くという運命のめぐり合わせ、そこで何かが起こったのです。

 毎日、その日の労働を終えると、テント村の外れに置かれた粗末なベンチで僕とヴォ―リャはおしゃべりをして過ごしました。ロマンチック?それがそうでもありませんでした。なにしろ夏のシベリア、タイガの夕暮れ時です。そこは熊をも刺し殺すという蚊の王国でした。僕はまとわりついてくる大型の蚊を必死で追い払うのですが、となりの彼女はすまして座っています。なぜか彼女には蚊が寄り付かないのです。しかも彼女は昼間は見張りをしていただけなので、余裕しゃくしゃくでした。

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 40% ヴォーリャさん画像(3)_001 
 

ポケットの中の愛
 8月末にモスクワに戻って勉学を再開し、いくつかの曲折を経て僕たちが付き合い始めたのは秋も深まった頃でした。当時、日本人学生の間では国際結婚が問題視されていて、国際結婚は避けるべきだという見解が主流になっていました。つまり、われわれ日本人学生は多くの日本人から選ばれ学ぶ機会を与えられてたのだから、卒業後は日本へ帰り日本の社会のために尽くすべきだ、という理屈でした。他方では、ソ連社会から半ば隔離された環境の中で年頃の若い男女が共同生活を送っているのですから、何も起こらなければおかしいでしょう。事実、日本人学生と他国の留学生との間で国際カップルがいくつも誕生しましたが、彼等は日本人社会の中で孤立感を味わっていました。

 さて、お付き合いを始めてからの僕たちですが、僕はパーヴロフスカヤ通りの寮に、ヴォ―リャはレーニン大通りの寮に住んでいたので、ちょっとした遠距離恋愛でした。僕は卒論の準備が忙しく毎日は書けませんでしたが、彼女はほぼ毎日長文の手紙を書いてきます。残念ながらあの頃の手紙は一切残っておらず、中味もよく覚えていないのですが、「論争」ばかりしていた気がします。それは、地球の反対側で育った異なる文化的背景をもつ若い二人の人間観、世界観の違いを洗いざらい出し合って、なんとか理解しあおうとする試みだった、と今にして思います。面白いことに、直接会っているときは論争などあまりせず、子ども時代の思い出話をよくしていました。よくあんなに話すことがあったものだと感心しますが、真冬の零下20度の遊歩道を夜中の3時過ぎまで行ったりきたりしながら話にふけったのも懐かしい思い出です。いわゆる、愛のエネルギーだったのでしょう。寒さは全く感じませんでした。でも熱帯の国から来たヴォ―リャにとっては大変だったと思います。彼女は僕の手が温かいと言って、コートのポケットの中で手袋を脱いだその手をずっと握りっぱなしでした。

40% ヴォーリャさん画像(2)_001  
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六畳一間とみかん箱と
 話は飛びますが、翌年6月、僕は大学を卒業し、ブラジルのフォルクスワーゲン社に就職しました。そして3年後の1970年、ヨーロッパ経由で帰国する途中、スウェーデンでヴォ―リャと再会します。彼女は医学部を卒業し、モスクワの精神病院でインターンをしていましたが、夏季休暇を利用して、ストックホルムのレコード工場でアルバイトをしていたのです。

 いろいろあって、当時の僕たちは別れたことになっていました。しかし、ストックホルムでよりを戻し、一緒に日本に行くことにしたのです。でも結婚を決めたわけではありませんでした。僕が、なにかの縁だから2,3年日本を経験してみないかと提案し、彼女が同意したという形でした。もっとも、後のヴォ―リャの述懐によると、二度と僕から離れるつもりはなかったそうです。

 そしてついにヴォ―リャは日本の土を踏んだのです。1970年8月のことでした。このときの来日は、観光ビザによるものだったので、「長期滞在ビザを得るために」僕たちは婚姻登録をしました。

 結婚生活の出発点でのあいまいさは、その後の二人の人生に影を落とし続けるのですが、あいまいさなんてどうでもいいわ、とばかりにヴォ―リャは日本で医師になるために猛進を始めます。本郷の東京大学正門前の風呂なし六畳一間のアパートを借り、無料で日本語が勉強できるとアジア文化会館に通い、小松川の夜間中学にも通いました。生活費を稼ぐために自宅でポルトガル語の個人授業も始めました。みかん箱を椅子にして。また、アパートの家主の紹介で、東京大学病院精神科に見学生として通いました。医師国家試験は日本語で受けねばなりませんし、医学用語の難しさもあります。国家試験を受ける前に、日本語の勉強を兼ねて運転免許試験を受けたのですが、日本語の文章構造がどうしてもつかめず泣きだしたこともありました。僕はたまに彼女と一緒に新聞を読んで日本語を教えてやろうとするのですが、ついイライラして喧嘩になったり・・・と、決してよい先生ではありませんでした。家庭内で会話にポルトガル語を使っていたのもよくありませんでした。そうして苦節5年、2度の失敗を経て、ヴォ―リャは晴れて医師免許を手にすることができました。


ヴォ―リャが残したもの
 ヴォ―リャの専門は精神科です。しかし、ヴォ―リャにとって一番大変だったのは日本人とのコミュニケーションだったと思います。日本人の裏と表のギャップは、彼女を最後まで悩ませました。自分が育った環境とは文化人類学的にまったく異なる社会で精神を病む人の治療に当たるというのはどういうことなのか、僕には理解しがたいところがあります。しかし、ヴォ―リャは決して精神科の医師であることをやめようとはしませんでした。実際、彼女は勤め先の多くの病院で患者や看護師から非常に慕われていました。九州のある精神病院に副院長(実質的には院長でしたが)として赴任したとき、軽快した入院患者を彼女がどんどん退院させてしまうので、金儲けをしたいオーナーが彼女を解雇しようとすると、患者が一丸となってハンガーストライキを行ったこともありました。晩年になってヴォ―リャは在宅医療を兼ねた精神科クリニックを開業しましたが、彼女が調子を崩した後も、患者たちはほかの医院に行こうとせず、辛抱強く彼女の復帰を待ちました。

 医師として、また人間としてのヴォ―リャの資質の中で最も重要なものは何だったのか・・・、それは心の開き方を知っていたということでしょう。自分のも、患者のも。だから人間に裏と表があることが受け入れられず、患者を丸ごと受け入れようとして大きな精神的負担を負ってしまったのではないでしょうか。ヴォ―リャは精神の病にかかりました。彼女は精神病院の入退院を繰り返しながら数十年にわたって精神科医の仕事を続けました。2004年1月、ヴォ―リャはパンくずを気管支に詰まらせて、入院先で亡くなりました。

 1966年の運命の出会いが、一人のブラジル人女性を日本に導き、その女性は様々な波紋を残して逝きました。民族友好大学はこの人を通してもまた歴史に足跡を残しているのです。


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