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チェーホフの素顔(3) ~家族の証言より~

~少年時代のおわり~
アントン・チェーホフ


■鐘楼の鐘で母親を歓迎した子供たち
楽しかった子供時代も終わりを告げようとしています。
最後に、子供たちが教会の鐘で母親を歓迎したエピソードを、マリヤの本から紹介します。 
  
 cross-2395426_640.jpg 


「私の父は、祭日の教会のお勤めを決して欠かしたことのない人で、これには家族全員が参加することを強要しました。私たち子どもにとってはそれが苦痛の種でした。早起きをしたうえ教会で長時間立ったままでいるのですから。しかしそんな時にも兄弟たちはふざけあいました。たとえばこんなエピソードがあります。

早朝、みんな気持ちよく寝ていて、とても起きる気になれません。母が、朝の礼拝に遅れるとか、父さんに叱られるとか言って、一人一人せかせます。父はみなより一足先に出かけています。やっとみんなの支度ができたのにアントンだけは頭から毛布をかぶって返事をしません。

『アントン、早く起きな。朝の礼拝に遅れるよ。父さんのことだからきっと怒ってるよ』
兄は足をばたつかせて言うことを聞きません。

私たちはアントンを残して教会へ出かけます。ニコライは先に出かけていました。ニコライは鐘楼で鐘を鳴らすのがとても好きで、たくさんの鐘を全部いっせいに鳴らして、独特の響きとハーモニーを出すことができました。」



ロシア 鐘 鐘楼 russia-1097400_640ロシア教会の鐘楼の鐘



「教会へ向かう途中、私たちの前に思いがけなく、アントンの姿を見つけます。はたして、彼は毛布をかぶっていた時にはもう着替えていて、私たちが家を出ると、大急ぎで起きて顔を洗い、近道を抜けて私たちを追い越したのでした。

教会の近くまで来ると、突然…鐘楼の鐘がいっせいに鳴り出しました。その時刻でもないのに盛大な鐘の音にみんなびっくりします。これもニコライが鐘楼から母の姿を見つけて鐘で歓迎の挨拶をやってのけたのです。本当はこの鐘は司祭様が教会に到着するときに鳴らすものなのですが。兄がこの一件で父からお目玉をくらったことは言うまでもありません。
後日、ニコライが鐘楼の鐘で母を歓迎したことは私たち家族の語り草になり、そのたびに心の底から大笑いしたものでした。

やがて、兄たちはそれぞれ男の子らしい興味の対象を持つようになり、私は仲間はずれされました。」



■子ども時代の終わり
 -父親の破産とモスクワへの移住ー


子供たちの楽しいエピソードも、1875年、上の兄二人が勉強のためモスクワに出たことで終わりを迎えます。長兄のアレクサンドルは大学へ、そして次兄のニコライは美術学校へ。
次兄ニコライ(左)と長兄アレクサンドル(右) 次兄ニコライ(左)と長兄アレクサンドル(右)



しかし時を同じくして、父親の商売も傾き始め、あっという間もなく翌1876年4月には決定的に破産。父親は借金地獄から逃げ出すために、モスクワの子どもの所へ転がり込みます。そして、その年の終わりには家が没収されてしまい、一家はモスクワへ移住します。

ただし、アントンだけはタガンローグに残らなければなりませんでした。
人手に渡った家に新しい家主が入ってくるまで管理人として残らなければならなかったことと、学校を卒業しなければいけなかったため(もう一人の弟のイワンも残りましたが、まもなくモスクワへ呼び寄せられます)

ミハイルも、マリヤも、それぞれの回想記の中で「父が商才を発揮したことは一度もなかった」「父は商売には向いてなかった」と語っていますが、父親パーヴェルが破産してしまった大きな原因は、彼が新しく家を新築したことから大きな負債を抱えてしまったことでした。そこに加えて、上の二人の息子をモスクワへ送り出すために無理をしたことが決定的となりました。


以下は、上の息子たちをモスクワへ送り出した後、一家がモスクワへ逃げていく前の家庭の様子が語られています。

ミハイル
「上の息子二人がモスクワに行くにあたっては、父は何とかやりくりをした。しかし、父の事業はこれで完全に破綻した。自分たちの持ち家で暮していたとはいえ、借金に苦しめられ、貧しさゆえ、交際のない閉鎖的な生活が始まった。僕たち少年は、毎日毎日を労働に明け暮れた。夜はアントンが即興的に何かを演じてみんなを楽しませ、母や叔母がいろんな物語を語ってくれた。…」





■タガンローグでのアントンの空白の3年間
学校を卒業するために一人でタガンローグに残ったアントンがどんな時間を過ごしたか、はっきりしたことは分かりません。
かろうじて弟のミハイルが、兄や知人から聞いた当時のエピソードを残してくれています。
(PD) トリム版Mikhail_Chekhov_in_Melikhovo ミハイル


「ぼくが1876年にモスクワへ発ってしまい、アントンとまる3年離ればなれになったこと、この3年がまったくの空白になってしまったことは実に残念だと思う。この3年の間にこそ、彼は大人に成長し、個性を形成し、少年から青年になったのだから。

「ぼくの知る限りでは、7、8年生の頃の彼は、8年生の頃の僕がそうであったように、女子生徒達に言い寄ったりして、ほのぼのしたロマンスがいくつかあったらしい。彼自身から聞いている。大学生になってからのアントンは、偶然すれちがった女の子を見て、まだ中等学校の生徒だったぼくの制服を引っ張って、『ほら、はやくあの子の後を追うんだ! 7年生にとっては掘り出しものだぞ!』などと、よく言ったものだ。

「アントンの死後、スヴォーリン [出版人、ジャーナリスト、アントンの終生の友人] が、アントンから聞いたというエピソードを話してくれたことがある。
 まだ中等学校の生徒だったアントンは、誰かの領地のどこかの広野にぽつんとある井戸のそばで、水に映る自分の姿を見ていた。そこへ、15歳くらいの少女が水汲みにやって来た。アントンがとっさに抱きしめてキスしてしまうほど、女の子はチェーホフを魅了してしまった。ふたりはいつまでも、何も言わず、井戸の水面を見つめていた。彼はその場所を立ち去ることができず、少女は水汲みのことを忘れていた。
 スヴォーリンにこの話をしたのは有名な作家になってからで、エネルギーの平行性と一目ぼれについて話している時だったという。

「タガンローグでの3年間、彼はよく劇場通いをしていた。…読書もたくさんした。…自分でも本格的といえるドラマ『父なし子』や、軽喜劇…を書いた。中等学校の生徒のころから、新聞…の抜き書きを作っていた彼は、モスクワにいる兄弟たちが登場する手書きの風刺マンガ雑誌『吃り』」を自作して、僕たちに送ってくれた。」





1874年撮影 チェーホフ家 大集合‼
 幸せな子供時代の最後を飾った、チェーホフ家の貴重な家族写真です。
※訂正とお詫び
画像の解説部分で、5男ミハイルの年齢が間違っておりました。
訂正と共にお詫び申し上げます。
(訂正前「5歳」 ⇔ 訂正後「9歳」)



40% 解説つき画像⑤ (PD) ファミリー1874年の写真 Chekhov_with_family_02

 

■『能楽堂公演 チェーホフ「桜の園」より』公演の
詳細と予約は、コチラから


20 能楽堂「桜の園」チラシ_(表) 




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私たちは、ロシア功労芸術家のレオニード・アニシモフを芸術監督に迎え、ギリシャ悲劇からチェーホフにいたる、古典作品から厳選したレパートリーを上演しています

平成27年3月27日、東京都より「認定NPO法人」として認定されました。


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