荻久保監督映画『田辺鶴瑛の「介護講談」』自主上映会のお知らせ

介護講談

✿✿✿ 上映会の詳細 ✿✿✿

【日時】
9 月 23日(土)
 12 : 00 / 15 : 00 / 18 : 00 

9 月 24日(日)
 12 : 00 / 15 : 00

★ご要望にお応えして、 平日の上映を追加いたしました!
9 月 25日(月)
 12 : 00 / 15 : 00


【会場】
スタジオブラート(20席)
(東京都目黒区青葉台4-7-7 青葉台マンション1F )
  HP  :   http://www.studio-bulat.com/
※地図は、住所から検索していただくか、上記のHPより地図をご覧ください。
※徒歩の場合は、京王井の頭線<神泉>駅、徒歩7分ほどです(ナザレン教会の裏)

【料金】
  2,000円

【お申込み・お問い合わせ】
金子幸代( 東京ノーヴイ劇団員 )
T e l . 090 - 6035 - 0681 
E-mail . kanekoneko009@gmail.com

※客席数 20 席のため、必ずご予約をお願い致します。 
※予約の無い場合、満席時にはご覧いただけないことがあります.



✿✿✿ 映画の紹介 ✿✿✿

 講談師、田辺鶴瑛さん(60)が認知症の義父を介護した経験を本音で語る「介護講談」が話題になっている。在宅介護のコツに、相手に合わせる、遊びを見いだす、ふまじめでいい-などを挙げる。これまではイベントなどで語る機会が多かったが、このほど、映画「田辺鶴瑛の介護講談」も完成した。静かに共感が広がっている。(2016年10月13日、産経新聞より)

▼映画の作品解説はコチラ!
作品解説 | 映画『田辺鶴瑛の「介護講談」』


▼まずは、Youtubeで予告編を!
映画『田辺鶴瑛の「介護講談」』予告編

天才作家伝 ~ B・ブレヒト編 ① ~

.現代演劇に大きな影響を与えた反戦の巨匠
B・ブレヒト 画像(2)

ベルトルト・ブレヒトは、1898年、ドイツのアウグスブルグで生まれ、24歳の若さで劇作家として認められて以後、詩人としても活躍しながら、その独自の演劇理論で、世界の演劇に大きな影響を与えた巨匠です。

ブレヒトの人生は、2つの世界大戦と重なっています。
16歳~20歳の多感な時期を、第1次大戦の中で過ごし、24歳の若さで詩人・劇作家として高い評価を受け、活発な演劇活動を始めますが、ブレヒトは共産主義者でもあった為、当時、ドイツ国内で力を持ち始めたナチスからは”危険人物“とみなされます。

1933年アドルフ・ヒトラーが首相に任命され、同年2月、有名な「国会議事堂放火事件」が起きると(この事件によって、ナチスはドイツ国内で権力を手に入れます)、その事件の翌日、ブレヒトは妻子を連れて国外に逃れます(妻はユダヤ人でした)。

亡命生活の始まり

ブレヒトが妻子を連れて亡命生活を送る中、1933年にナチ党政府はブレヒトの著作の刊行を禁止し、彼の著書を焚書の対象としました。

さらに!
1935年には、ナチスからドイツ市民権を剥奪されます。

(PD) ポーランド軍歩兵行進 Polish_infantry_marching_-2_1939
(ポーランド軍歩兵の行進)

1939年9月、ドイツ軍によるポーランド侵攻によって、第2次世界大戦が始まります。身の危険を感じたブレヒトは、亡命先を転々と変えながらも創作活動を続け、1941年に、アメリカ合衆国にたどり着きます。

『コーカサスの白墨の輪』執筆

『コーカサスの白墨の輪』は、アメリカ亡命時代の最後の作品です。1943年、ブレヒトの作品をブロードウエイで上演する計画がすすみ、ブレヒトはこの作品の執筆を開始。翌44年には、ほぼ書き上げられますが、45年に大戦が終結し、まもなく米ソの冷戦が始まったことから、上演は不可能となってしまいました。


そして、世界的な評価へ…

ブレヒトは東ドイツに戻ると、1949年その実績を認められ、自身の本拠地として国立劇場(劇団)ベルリナー・アンサンブルの創設を認められます。

(PD) Berlin_theater_am_schiffbauerdamm_berliner_ensemble
(ベルリナー・アンサンブルの建物)

1955年には、パリで開かれた国際演劇祭で、『肝っ玉おっ母』と『コーカサスの白墨の輪』の2作品で参加します。

この上演は大成功を収め、実質、この2作品によって、ブレヒト演劇の成果が西欧の観客に知れ渡り、同時に国立劇場ベルリナー・アンサンブルは世界の演劇人のメッカとなります。

1956年8月14日(58歳)、心臓発作のためベルリンで死去。

え? 『白墨の輪』のお話は、あの『大岡裁き』?

コーカサスgazou 05

さて、まだこの作品を見ていない方には申し訳ありませんが、先にネタばらしをしてしまいます(スミマセン!)。

1.『白墨の輪』の元ネタ、ばらします!

ベルトルト・ブレヒトの代表作の一つ『コーカサスの白墨の輪』
実は、このお話のメインのエピソードは、なんと、あの「大岡裁き」で有名な、子どもをめぐって争う二人の母親を裁くお話なのです。

二人の母親が子どもの両手を、ちょうど綱引きのように互いに引っ張りあって決めることになりましたが、手を無理やり引かれて痛がる子どもが不憫で、つい手を離してしまう方の母親こそ「本当の母親」って認められるというやつです。

大岡忠相


でも、この「大岡裁き」には元ネタがあるのです。

実は、この大岡裁きの話は、中国の『灰欄記(かいらんき)』という戯曲に書かれたお話から来ています。

『灰欄記』の「灰(かい)」とは石灰、「欄(らん)」は輪っかを意味し、直訳すると『石灰で書いた輪』なので、ほぼ『白墨の輪』ですね。(そう言えば小学生の頃、運動会とかがあると、グラウンドにこの石灰で競技場のラインとか引かされましたっけ。あれ? そういう経験ってありませんか?)

で、ブレヒトが『コーカサスの白墨の輪』を書く際に参考にしたのは、この『灰欄記(かいらんき)』を下敷きにしてドイツで上演された、別の作家の『白墨の輪』なんだそうです。

ブレヒトは、1944年、亡命中のアメリカで『コーカサスの白墨の輪』を書き上げていますが、実はその3年前に、舞台を自分の生地ドイツのアウグスブルクに、時代を30年戦争の時代に移して、短編『アウグスブルクの白墨の輪』を書いています。
この作品の中で登場する裁判官は、のちの『コーカサス…』に登場する”悪徳裁判官アツダク”に比べると、わりとマトモというか、体制側の人間なのだそうです。(スミマセン、『アウグスブルクの…』はまだ読んだことがないので、この辺は完全に受け売りです。)

「でも、いくら男気の強い人間だったとしても、体制側の裁判官が、生みの母親より、愛情をもって育てた女に親権を認める判決をくだすなんて、どこか無理があるな…」

そう考えたブレヒトは、次の『コーカサス…』では、国王軍とクーデター軍の争いが続く中、たまたま生まれた無秩序な期間に、たまたま裁判官をやる羽目になった男(アツダク)に、この役目をやらせます。



2.旧約聖書にさかのぼる『大岡裁き』


少し本題から逸れましたね。

で、このお話はさらに、旧約聖書の中のお話にまでさかのぼります。

皆さんは『ソロモン王』とか『ソロモン王の知恵』って、耳にしたことはありませんか?

ソロモン王とは、旧約聖書に描かれる古代イスラエルの王様で、神様からこの世の中の誰とも比べられないような「優れた知恵」を授けられ、古代イスラエル王国を大繁栄に導く伝説の王様です ( 旧約聖書「列王記」所収 )。

で、ソロモン王が神様から知恵を授けられた直後に、ソロモン王の優れた知恵の証として描かれるエピソードが、この「母親を決める裁判の話」なんです。というか、具体的なエピソードとして描かれるのはこれだけなので、正直ちょっと、「え? それだけなの?」という感じはしちゃいますが…(スミマセン)。

ただ、古い時代のお話なので、ちょっと描き方が強烈、というか極端です。

なんと、ソロモン王は、「剣を持ってきて、この子どもを二つに切り裂き、二人の女に分け与えよ!」と命じます。

本当の母親ではない方の女は「では、その子どもを半分に切り裂き、私たちに平等にお与えください。」と言うのに対し(ふつう言うかなぁ? そんな無茶苦茶なこと…。)

その裁きに驚いた、本物の母親は「わが君。どうかその子どもをあの女に与えて下さい。子どもを殺さないでください。」と頼みます。

それを聞いたソロモン王は、「子どもを切り裂くのは止めよ。この女こそ、この子どもの本当の母親だ。」と裁定をくだすのです。

まあ、「子どもの親権」については、古くから問題にあげられていたということでしょうか…。


さて余談ですが、
この、ソロモン王の裁きについて、ブログ「ヘンデルと(戦慄の右脳改革)音楽箱」の中に、かわいいイラストと共に紹介されていました。なにげに読んだら面白かったので、良かったらご覧ください。
➡ブログ「ヘンデルと(戦慄の右脳改革)音楽箱」 http://handel.at.webry.info/200906/article_4.html


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天才作家伝 ~ M・ゴーリキー編 ①  幼少期から「どん底」執筆まで ~

M・ゴーリキー 画像(1)

作家の紹介
今年1917年11月に、なんと、あのゴーリキー『どん底』が復活することになりました! ゴーリキーの『どん底』は、私たちの代名詞ともいえる作品です。

そこで今回の号では、ゴーリキーとはどんな人だったのか、簡単ですがその人生を辿ってみたいと思います。



<過酷な人生体験を余儀なくされた幼少期>

(以下の記事は、WIKIを参考に編集しました。画像は全てWIKIから使わせてもらっています)

カナヴィンスキー橋から見たニジニ・ノヴゴロドの街並み


ゴーリキーは、1868年、ボルガ川流域のニジニ・ノヴゴロドという町で生まれました。

5歳で父を、10歳の時には母を肺結核で亡くし、ゴーリキーは11歳の年で社会に出て働かざるを得なくなります。

靴屋の小僧、製図工の徒弟、ヴォルガ川を往復する汽船の皿洗い、売店の売り子、芝居の下っ端役者、イコン作りの弟子など、多種多様の職業に就き、ロシアの下層社会の生活を身をもって体験することになりました。

この過酷な幼少時代、ゴーリキーの唯一の慰めとなったのが、話上手な祖母アクリーナに育てられたことでした。

祖母はかしこく、善良で、天分豊かな、「世界に対する無私の愛」に満ちた人物でした。ゴーリキーは祖母から「過酷な人生に耐えて行く強い力」を学んだそうです。

その祖母の死は彼を深く動揺させました。そして19歳の時、一説には失恋からとも言われていますが、自殺未遂事件を起こすも、奇跡的に命をとりとめます。そしてロシア各地を、職を転々としながら放浪し、その後、地方新聞の記者となります。

(M・Gorky) 1900年頃 - コピー


24歳の時にトビリシで、『カフカス』紙に最初の短編『マカル・チュドラ』が掲載され、はじめて筆名としてゴーリキーを名乗りました。

その後30歳になってサンクトペテルブルクで短編集『記録と物語』を刊行した頃には、一躍人気作家になっていました。

その名声はたちまちアントン・チェーホフやレフ・トルストイと比されるまでになりました。

(PD) 714px-1900_yasnaya_polyana-gorky_and_tolstoy 1900年、ヤースナヤ・ポリャーナ。トルストイとマクシム・ゴーリキー
200(PD) 1900_yalta-gorky_and_chekhov



そして1902年、34歳の時、彼の最高傑作ともいえる『どん底』を発表します。そして同年モスクワでコンスタンチン・スタニスラフスキーの演出によりモスクワ芸術座で上演され、翌1903年には、ベルリンでも上演されました。
(PD) 800px-Another_Scene_from_The_Lower_Depths


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東京ノーヴイ・レパートリーシアターのメンバーたちが、任意に稽古の模様や本番の様子などを、お伝えしてまいります!


私たちは、ロシア功労芸術家のレオニード・アニシモフを芸術監督に迎え、ギリシャ悲劇からチェーホフにいたる、古典作品から厳選したレパートリーを上演しています

平成27年3月27日、東京都より「認定NPO法人」として認定されました。


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