なかなか上演されない「観音巡り」(曾根崎心中)


近松門左衛門 特集 3  
~『曾根崎心中』 当時の大坂をのぞく(3)~

今回は、現代ではなかなか上演されない、『曾根崎心中』の冒頭、「観音巡り」についての紹介です。

「…近松門左衛門の原『曾根崎心中』は、「観音巡り」から始まります。
この「観音巡り」は、主人公お初が大坂三十三所の寺々を巡って歩いていく姿を描いたものです。近松の本領ともいうべき美しい詞章が連ねられており、またそこに描かれる、お初の若々しい姿は非常に印象的です。文学作品として読むなら、きわめて重要な部分です。ただ本筋に直接関係がないことと詞章の難解さから、初演以来、ほとんどこの部分が上演されることはありませんでした。」

50%size (pd) 「牟芸古雅志」(瀬川如月著)より人形浄瑠璃「曾根崎心中」上演の様子 

この「観音巡り」のシーンは、大阪に住んでいる方にとっては、ごく身近な、当たり前の描写なのでしょう。
ただ、大阪に住んでいない私たちにはなかなか、実際に訪れる機会はありません。
今回、紹介させていただいております『心中への招待』で、著者の小林恭二氏が、実際に三十三所巡りを敢行し、その体験をレポートしてます。

「これも何かの縁だと思って、ある冬の日、歩いて廻ってみることにしました。…(中略)…
食事時間をあわせてざっと7時間、距離にして20キロ近く歩いたでしょうか。ただ廃寺が多く、実際に廻ったのは24所でした。しかも手を合わせる時間は、平均で5秒くらい。お初はちゃんと手をあわせ、賽銭も投げたでしょうから、もっと時間がかかったでしょう。一日で廻るのはかなり難しいというのが実感でした。」


近松は、当時では珍しいリアリズムの作家でもあり、実際の事件をもとに作品を書く際には、相当に調べあげて書いていることが知られています。おそらくは、この界隈を何度も歩きながら、想を練ったのではないでしょうか。
大阪を訪れる際は、ぜひ訪ねてみたいと思います。

※私たちの『曾根崎心中』では、この「観音巡り」の部分を、
「サザエさん」磯野波平役の声で親しまれた、声優の 故  永井一郎氏に、
素晴らしいナレーションで語ってもらっています。これは本当に、何回聞いても感動する、素晴らしい語り口です!
ぜひ私たちの劇場に足を運んでご堪能ください。
30 永井一郎写真 

参考: 小林恭二 著 『心中への招待』 (文藝春秋)



2018年2月22日(木) ~ 25日(日) 『曾根崎心中』 
公演の詳細はこちら20% 「曾根崎」申込バナー(横・うす茶)  


今とは違う? 近松の時代の『曾根崎心中』

近松門左衛門 特集 2  
~『曾根崎心中』の大坂をのぞく~(2)


2018年2月22日(木) ~ 25日(日) 『曾根崎心中』 
公演の詳細はこちら


近松の時代の人形は「一人使い」
今でこそ、文楽といえば「三人使い」ですが、近松の頃はまだ、人形は一人使いでした。三人使いの人形が登場するのは、近松が死んで10年くらい経った頃。それも当時は、ショー的な効果を狙ってのワンシーン限定に作られた人形だったそうです。
(pd) 辰松八郎兵衛が操るお初の人形:「牟芸古雅志」(瀬川如月著)より人形浄瑠璃「曾根崎心中」上演の様子(pd) 辰松八郎兵衛が操るお初の人形:「牟芸古雅志」(瀬川如月著)より

この挿絵の中に描かれている「辰松八郎兵衛」は、女方人形遣いの名手として知られ、1703年の竹本義太夫演奏による『曾根崎心中』初演では、お初を演じました。

もう1枚、当時の人形浄瑠璃の挿絵を紹介しましょう。
この挿絵は近松の舞台のものではありませんが、 『人倫訓蒙図彙』(1690年)に描かれたものです。やはり一人使いですね。

部分 20% (PD) 『人倫訓蒙図彙』(1690年)より「人形浄瑠璃」挿図


近松の作品に向いているのは、1人使い? 3人使い?
近松の死後、文楽人形は、「三人使い」の操作が考案され、やがて、目を動かし、舌を出し、髪を逆立て、腹を動かせるようにもなるなど、高度な感情表現を手に入れていきます。

けれども近松の作品は、こうした複雑な人形操作を必要としない、素朴でシンプルな人形劇の時代に書かれ、上演されました。

近松の、リズミカルで、たたみかけるような文体は、むしろこうした一人使いの人形に支えられての作風といえるのかもしれませんね。もしかしたら、近松の作品は「一人使い」の人形に戻って上演する方が、より楽しめるのかもしれません。そんな想像も膨らんでしまいます。
例えば作家の橋本治先生が、著書『浄瑠璃を読もう』の中で、近松の文体、作風と、一人使いの人形操作の関係について書かれています。機会があればぜひお読みください。(この本はとっても面白いので、おススメです。)

さて、『曾根崎心中』の上演は爆発的な人気を呼び、その後、「心中もの」シリーズが大流行します。
ところが「心中」自体も頻発するようになってしまったため、「心中もの」は、社会規範を乱す作品として、江戸幕府によって厳しい取り締まりの対象となり、以後上演することができなくなりました。(近松晩年の頃のことです。)

そして時代が変わり、明治時代。
演劇改革のパイオニア、坪内逍遥(つぼうち しょうよう)博士によって、近松門左衛門の作品が再発見、再評価されるまでの間、たとえば『曾根崎心中』などは200年の間、上演されることがありませんでした。(ちなみに「近松門左衛門は、日本のシェイクスピアだ」と評したのは、この坪内逍遥先生です)

その間に、音楽スコア(三味線譜)も失われ、当時、どのように上演されたか、今となっては分かりません。
現代に上演されている『曾根崎心中』は、実は、新たに作曲し、演出しなおされたものです。
1953年、宇野信夫先生が歌舞伎版『曾根崎心中』を脚色、復活上演が行われ、文楽では、1955年に、野沢松之助の脚色・作曲によって復活上演されました。

こうやって見てくると、
近松の再評価、近松作品の可能性を探る道のりは、実は、まだまだ「途上」なのかもしれませんね。



※おことわり
文中では、「人形使い」という表記で統一していますが、正確には「人形遣い」という表記になります。


※参考:『浄瑠璃を読もう』 橋本治著/新潮社

50%size (pd) 「牟芸古雅志」(瀬川如月著)より人形浄瑠璃「曾根崎心中」上演の様子 
「牟芸古雅志(むぎこがし)」(瀬川如月著)より人形浄瑠璃「曾根崎心中」上演の様子(Public Domain)

10% (PD) 『人倫訓蒙図彙』(1690年)より「人形浄瑠璃」挿図 (Public Domain) 『人倫訓蒙図彙』(1690年)より「人形浄瑠璃」挿図



2018年2月22日(木) ~ 25日(日) 『曾根崎心中』 
公演の詳細はこちら

『曾根崎心中』 当時の大坂をのぞく (1)

近松門左衛門 特集 1  
元禄時代の大坂は、こんなに凄かった!
~『曾根崎心中』 当時の大坂をのぞく~(1)

40%size (pd) 近松門左衛門(和書「國文学名家肖像集」)(PublicDomain) 近松門左衛門(和書「國文学名家肖像集」)



『心中への招待状 – 華麗なる恋愛死の世界 – 』
(小林恭二著/文藝春秋)より
50% 『心中への招待状』表紙

近松門左衛門「曾根崎心中」を独特の視点から読み解いた小林恭二先生の『心中への招待状』。今回は、同書から幾つか記事を紹介しながら、「曾根崎心中」の時代を覗いてみたいと思います。



2月22日(木) ~ 25日(日) 『曾根崎心中』公演の詳細はこちら
近松門左衛門『曾根崎心中』




50 江戸時代の大坂①
「菱垣新綿番船川口出帆之図 」(大阪府立図書館
http://e-library2.gprime.jp/lib_pref_osaka/da/detail?tilcod=0000000007-00010154)

『曾根崎心中』の舞台となった元禄期の大坂は、
世界的にも類を見ないほど、大繁栄を誇った町だった!


では、さっそく小林先生の著書から、当時の大坂の繁栄ぶりを引用してみましょう。

「世に千載一遇ということばがあります。千年に一度しか出会えないようなビッグチャンスという意味です。歴史には、ときどき恐るべきチャンスが無造作に転がっている場所や時間が存在します。…(中略)…本書の舞台となる元禄時代の大坂も、商人にとっては千載一遇の都でした。…」

全ての流通は大坂へ
「元禄時代の大坂には日本中のモノが集まっていました。あらゆる物産(外国製品も含む)が一度大坂に集められ、そこで値を定められた上で、全国に散ってゆくシステムになっていたからです。当然、莫大な富が大坂に落ちました。1714年に大坂に入ってきた金は、約409万両。これに対して大坂から出ていった金は137万両。差し引き272万両が大坂に落ちた計算になります。資本主義が未発達な時代、これは莫大な金額です。しかもこれをわずか40万弱の人々が分け取りにするんです。ピンとこない人のためにいうなら、子供や老人ですら、毎年7両ずつ(150万円くらいでしょうか?)純資産(収入ではありませんよ)を増やしていけた計算になります。
まともな商人であれば、10年も働けば、確実に資産家になれたでしょう。…(中略)…大阪は空前の繁栄を誇りました。そして日本はもとより中国やヨーロッパにも類を見ない豪商が軒をつらねたのです。」

「大坂は船でもって市街のほとんどにゆくことができました。これが商業都市にとってどれだけアドバンテージとなったか、想像もつかないほどです。大八車やせいぜい馬車でしかものを運べなかった時代に、あらゆる倉庫に船で運べたんですから。
大坂は都市計画の傑作でした。しかもその都市計画はすべて商業に照準が置かれていました。」

 

当然、食の町としてもトップだった大坂
「…蝦夷の昆布も、遠江の椎茸も、伊勢のクジラも、志摩のアワビも、紀伊の砂糖も、播磨の塩も、…みな大坂を経由していました。つまり、大坂以外では一部の特権階級しか手に入れられないものが、大坂では庶民でもごく簡単に手に入れられたのです。その端的な例が出汁(だし)です。出汁に使う昆布にせよ、鰹節にせよ、イリコにせよ、椎茸にせよ、一部の地方の特産品です。」
これらをすべてそろえた上、料理によって使い分けるなどという贅沢は、ただ大坂のみができました。大坂では、年端もゆかぬ丁稚ですら、きつねうどんの汁の良し悪しを論評しました。」

80% 食材  

「大坂は酒の都でもありました。当時日本人が飲んでいたのは、いわゆる、どぶろくです。よく昔話に一升の酒を飲んだの二升飲んだのと出てきますが、当時の酒は酒精分が少なく、今のビールくらいでした。ですから、多少なりとも酔おうと思ったら、大量に飲まざるを得なかったのです。しかし、大坂ではいちはやく清酒が広まっていました。おかげで彼らは浴びるように飲まなくても酒に酔うことができました。もちろん味も格段に向上しました。薄く、コクのないどぶろくしか知らない当時の人々にとって、清酒はまさに美禄でした。」




30 (PD) 大坂郊外の写真  
(図は、1902年に撮影された大坂郊外の写真/(Public Domain))



2月22日(木) ~ 25日(日) 『曾根崎心中』公演の詳細はこちら
近松門左衛門『曾根崎心中』


『チェロと宮沢賢治 ― ゴーシュ余聞 ―』

宮沢賢治 特集 2   
60% 「チェロと宮沢賢治 ゴーシュ余聞(表紙) 

『チェロと宮沢賢治 ― ゴーシュ余聞 ―』
(横田庄一郎著/音楽之友社)


今回は、横田庄一郎先生が書かれた『チェロと宮沢賢治 –ゴーシュ余聞-』から
チェロと宮沢賢治について書かれたエピソードを紹介させていただきます。

(この記事は、「東京ノーヴイNewsPaper 2018年1月号」に掲載した記事を元にしています)




2018年2月1日~4日『銀河鉄道の夜』上演。詳細はこちら
宮沢賢治『銀河鉄道の夜』



こいづぁ、おれのカガ(妻)だもの
宮澤賢治 画像(1) チェロの音色をこよなく愛した宮沢賢治(PublicDomain)


チェロの音色をこよなく愛した宮沢賢治。こんなエピソードが残っています。

「ある時、賢治の伯母ヤスが、「お前は早く嫁をもらえ」と膝をつかまえるようにしてキツク迫ったことがあったとき、賢治は、愛用のチェロを持ち出して、いかにもかわいらしくて堪らないというようにチェロを抱き、ポロンポロンと鳴らし、「こいづぁ、おれのカガ(妻)だもの」と言ったので、とうとう二人で顔を見合わせて大笑いしたことがあった。」




独学で学んだチェロ

この時代、チェロはまだそれほど普及していませんでした。
そして東京音楽学校が『西洋音楽講座』の開講を始め、その中で、1925年から、チェロ奏法についての講座が始まります。この本が、当時、一般の日本人が手にすることができた、ほとんど唯一のチェロ奏法についての本でした。
賢治は、これを購読、独学で学びました。

翌1926年に、賢治はチェロを購入します。(実は、賢治が購入したチェロは、当時の最高級品です。)

そして賢治はチェロを勉強するために上京を決意します。
意気込んで上京した賢治のチェロの先生は、当時、結成されたばかりの新交響楽団(現NHK交響楽団)のトロンボーン奏者でチェロもたしなんだ大津三郎(1892-1957)でした。

とは言えチェロのレッスンは、新交響楽団のメンバーがいきなりやってきた青年に時間をさいて教えられるほど簡単なものではなかったようです

賢治のチェロ(著作権状態不明) 宮沢賢治愛用のチェロと、妹トシのバイオリン
(宮沢賢治記念館)



三日間のレッスン

賢治にチェロを教えた大津さんは、戦後1952(昭和27)年、雑誌『音楽之友』1月号に『私の生徒 宮沢賢治 ― 三日間セロを教えた話 ―』という手記を発表しています。
ある日、大津さんは、当時、自分達が稽古場で借りていたビルのオーナー塚本氏に呼びとめられて、こんな相談を受けます。

「『三日間でセロの手ほどきをして貰いたいと云う人が来ているが、どの先生もとても出来ない相談だと云って、とりあってくれない。

岩手県の農学校の先生とかで、とても真面目そうな青年ですがね。無理なことだと云っても中々熱心で、しまいには楽器の持ち方だけでもよいと云うのですよ。何とか三日間だけ見てあげて下さいよ。』と口説かれた。…(中略)

塚本氏の熱心さに負けて遂に口説き落された私が紹介されたのは、三十歳位の五分刈り頭で薄茶色の背広の青年で、塚本氏が『やっと承知して貰いました大津先生です』と云うと、

『宮澤と申します、大層無理なことをお願い致しまして…』と柔和そうな微笑をする。『どうも見当もつかない事ですがね、やって見ましょう』と微苦笑で答えて、扨(さて)、二人の相談で出来上がったレッスンの予定は、毎朝6時半から8時半までの2時間ずつ計6時間と云う型破りであった。…(中略)

三日目には、それでも30分早くやめて、たった3日間の師弟ではあったが、お別れの茶話会をやった。その時初めて、どうしてこんな無理なことを思い立ったか、と訊ねたら『エスペラントの詩を書きたいので、朗誦伴奏にと思ってオルガンを自習しましたが、どうもオルガンよりセロの方がよいように思いますので…』との事だった。

(ここで、詩人の宮沢賢治を知らなかった大津さんは、『詩をお書きですか、私も詩は大好きで、こんなものを書いたこともあります』と軍楽隊員時代に書いた自作の詩を賢治に見せます)

今日の名声を持った宮沢賢治だったら、いくら人見知りしない私でも、まさか自作の詩らしいものを見せる度胸はなかっただろうが、私はこのとき詩人としての彼を全く知らなかったのだ。」





チェロと セロ、どう違うの?

賢治のチェロに対する愛着が、名作『セロ弾きのゴーシュ』に集結しました。
でも、なぜ「セロ弾き」なの? ゴーシュが弾いているあの楽器は、
「チェロ」じゃないの?

実は、日本にチェロが入ってきた当時、
チェロ(cello)は「セロ」という名称で紹介されていました。
(ただし「チェロ」という表記も併用されていたようです。)

戦後になって、「チェロ」に統一されたのですが、
やっぱりゴーシュは「セロ弾き」ですよね
(「チェロ弾きのゴーシュ」じゃちょっと…!)
60% cello_hiki_gauche 



2018年2月1日~4日『銀河鉄道の夜』上演。詳細はこちら
宮沢賢治『銀河鉄道の夜』

『先生はほほーっと宙に舞った』-宮澤賢治の教え子たち-

宮沢賢治 特集 1    
紹介レポート
(この記事は、「東京ノーヴイNewsPaper  2018年1月号」に掲載した記事を元にしています)


NPO法人「東京賢治シュタイナー学校」の創設者である、鳥山 敏子(とりやま としこ、1941年10月3日 - 2013年10月7日)先生が、1991年に、まだ存命中の宮沢賢治の教え子たちを一人一人訪ね、恩師・宮沢賢治の思い出を語った内容を収録した、たいへん貴重な奇跡のような映像記録と、その書籍があります。

『先生はほほーっと宙に舞った』
『写真集 先生はほほーっと宙に舞った -宮澤賢治の教え子たち-』
著:鳥山 敏子 / ‎写真:塩原 日出夫 / 出版:自然食通信社

宮沢賢治DVD画像
DVD『賢治の学校 宮澤賢治の教え子たち』
賢治の教え子のインタビューの総集編「先生はほほーっと宙に舞った」をはじめ、全11巻があります。



収録当時、宮沢賢治の教え子たちは80~85歳。
賢治が亡くなってからおよそ60年の時が経っていますが、驚いたことに、彼ら教え子たちが語る宮沢賢治のエピソードは、少しも色褪せることなく、生き生きとしています。
皆さんも機会がありましたら、この貴重な記録(映像、または書籍)をご覧になってください。
宮澤賢治の教え子インタビュー映画DVDプロモーション

50 宮沢賢治DVDプロモーション映像④



(以下『写真集 先生はほほーっと宙に舞った―宮澤賢治の教え子たち』より、抜粋)
■瀬川哲夫氏
「…宮澤先生には、普通の話ではない、不思議なお話をいくつも聞いたのですが、細胞の中にある細胞核が、地球が始まってから今までのことをみんな覚えているんだとか ―、(中略) その歴史を記憶していること、それが生命力なんだ、と言ってました。

私は60年前にそういうことを聞いているんです。不思議でならなくて、ほんとうだかウソだか、ただ聞いていましたが、でもよぉーく考えてみると、だんだん本当だと思えてきて…」

「…人間というのは、頭の、いわゆる知識の能力から生まれてくるんじゃないというんです。(中略)無意識が本当の生命の力だと。生命の本体は、細胞核の無意識なんだと、こう宮澤先生は言ってるんです。

「先生はしょっちゅう、すごく感動したり、面白い何かがあったときは、ホーホーと声を出して、飛び上がって回るんです。先生は嬉しいとき、感動したときは、からだが軽くなって、からだ全体が宇宙に飛び上がる思いがすると言っておったんです。」
 



■浅沼政規(あさぬま まさき)氏
「…先生は、『口で話したって本当は分からない。実際にやってみせる、あるいはやらせる、やる、それじゃなければ駄目だな、これが実習のコツだ、こういう精神でやらなければ本当の学習・勉強にはならない』ということを、よく説明してくれるんです。(中略)

(自分が)教員になってからは、…(中略)…先生の精神はいっこうに心から抜けないで、いつまでたっても思い出されてくるし、ありがたいことだと思っていますね。…ただ、先生はその後、農学校を辞められて、羅須地人協会を作られて、実際に畑を作られ、野菜や花を作ったり色々なさったりという道を選ばれた。これは、自分なんかが教壇に立って教えてばかりいるということが間違いなのかぁ、という感じもしないわけじゃなかったけれども、それぞれの歩む道があるのだろうと、そんな風にして年を経てきたんですがな」




■坂俊雄氏
「『宮澤先生』―われわれはそんなふうに言いませんよ。われわれは『アルパカ』って、賢治は歯が出ている、だからアルパカ。
学校へ行くのが楽しくてならなかった。本当に楽しい先生でした。先生の言うことをうわの空で聞くことはなかったな」

 
■根子吉盛氏
「先生の授業だと、いつも遅刻する奴が遅刻しなかった。
私らの下に新しく入ってきた一年生なんかに『宮澤先生の時間は粗末にしたらダメだよ。損するんだよ』と教えたんですよ。」


■川村與佐衛門氏
「(先生の)仕草が浮かんでくるんだよね。(中略)…ところがそれこそ、ナッパ服を着て、バッタバッタと歩いてた姿を思い出すのだから」


この映像については、賢治の学校で定期的に上映会も開かれているようです。DVDの販売、上映会の予定については「NPO法人東京賢治の学校 自由ヴァルドルフシューレ」でお尋ねください。

「npo法人東京賢治の学校 自由ヴァルドルフシューレ」ホームページ
http://www.tokyokenji-steiner.jp/



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東京ノーヴイ・レパートリーシアターのメンバーたちが、任意に稽古の模様や本番の様子などを、お伝えしてまいります!


私たちは、ロシア功労芸術家のレオニード・アニシモフを芸術監督に迎え、ギリシャ悲劇からチェーホフにいたる、古典作品から厳選したレパートリーを上演しています

平成27年3月27日、東京都より「認定NPO法人」として認定されました。


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